■2016.06.09.the. 川越の山車/元町二丁目 山王の山車up!
鉾(ほこ)の上の人形は、烏帽子(えぼし)をかぶる山王(さんのう)の立ち姿。金幣(きんぺい)を風になびかせては、凛としたまなざしを向け、町の賑わいを見渡します。
電工等によって 人形は予期せぬ障害から守られます
山王は、日吉大社(ひよしたいしゃ)に祀られる神さまです。
山王さん(さんのんさん)の愛称で親しまれ、つかわしめはお猿さん。ちなみに、お稲荷さん(おいなりさん)のお使いは、皆さまもご存知の狐さんです。
鉾の上に目を凝らせば、人形の胸には、猿の面が下げられました。
山王の山車は 十ヵ町の時代に旧鍛冶町で建造されたもの
■2016.05.24.tue. 川越の山車/元町一丁目 牛若丸の山車up!
竜笛(りゅうてき)を手に、 牛若丸(うしわかまる)は、鉾(ほこ)の上より町を見渡すと、溢れかえる人の波を案じます。
日本昔話のひとつ、牛若丸が弁慶(べんけい)を諭すエピソードは、あまりに有名な、五条大橋の物語として知られます。
牛若丸に題材を求めた、元町(もとまち)一丁目の山車は、鉾の上の人形や、腰回りの彫刻に、様々な装飾を施しました。
御霊の入る彦神の神輿 「川越まつり初日 神幸祭」氷川神社にて
■2016.05.17.tue. 川越の山車/今成 鈿女の山車up!
天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、日本神話に登場する女神として、広く知られています。
岩戸を開き、天照大神(あまてらすおおみかみ)を導くエピソードは、どなたも一度は耳にしたり、書物をひもといたことがあるのではないでしょうか。
古くは里神楽(さとかぐら)、また、能(のう)や狂言(きょうげん)にても題材とされ、
天鈿女命は別称、「おたふく」「おかめ」とも呼ばれます。
踊りは白装束の天狐 巫女の一行は「川越まつり初日 神幸祭」
■2016.05.10.tue. 川越の山車/六軒町 三番叟の山車up!
旧藩(はん)時代、川越の城下には、町割(まちわり)として、十ヵ町四門前(じっかちょうしもんぜん)が敷かれています。
また、発展にともない周辺には、郷分町(ごうぶんちょう)が設けられ、そこには六軒町(ろっけんまち)も名を連ねていました。
350余年の時を経て、町は欠かせぬ存在として今日まで、川越のまつりには、三番叟(さんばそう)の山車を送り続けてきました。
三番叟の人形と 印半纏「川越まつり 神幸祭」にて
■2016.04.19.tue. 川越の山車/川越市 猩猩の山車up!
猩々(しょうじょう)は、古い書物にも見られるように、もちろん想像上の生き物ですが、猿のような姿と記されます。
また能楽の演目では、酒に浮かれては踊る、猩々の様子が見られ、ときとして猩々は、大酒飲みの例えにも用いられます。
ちょっとわたしには、耳の痛いエピソードとはなりますが。
また、日本の伝統色に、猩々緋(しょうじょうひ)と呼ばれる色名もあり、エンジよりも鮮やかな赤を指したもの。
小江戸の文字の枠色は 猩猩をイメージする赤で縁取られます
■2016.04.19.tue. 川越の山車/幸町 小狐丸の山車up!
囃子台に掲げられた扁額(へんがく)には、かつて城下を、十ヶ町四門前(じっかちょうしもんぜん)として整備していた頃の、 鍛冶町(かじまち)の名が記されています。
現在では町名を、幸町(さいわいちょう)と改めましたが、山車は当時の名残りをとどめ、愛して止まぬ生まれ育った、旧町名を尊重したに違いありません。
祭り囃子は堤崎(つつみざき) 幸(さいわい)町囃子会
■2016.04.12.tue. 川越の山車/幸町 翁の山車up!
鉾(ほこ)の上から、翁(おきな)の人形は、押し合う人波を案じては、町を静かに見守ります。
装束は、直衣(のうし)に烏帽子(えぼし)を冠り、胸には翁の面が下げられました。
四方幕(しほうまく)には雲竜が、見送り幕の緑の地には、小松があしらわれます。刺繍は、京の西陣により誂えたもの。
祭り囃子は堤崎(つつみざき)流 幸(さいわい)町囃子会
■2016.04.06.wed. 川越の山車/脇田町 家康の山車up!
家康(いえやす)の山車(だし)が、車輪をきしませ、一番街通りにさしかかりました。
午後の強い西日のなか、鉾(ほこ)の最上段に構える人形は、式服に身を包む、家康の御神像(ごしんぞう)。
高所から、人々の波を気づかう人形は、大工等によって、不慮の事態に備えて障害物から守られます。
祭り囃子は王蔵流で葵(あおい)囃子連 踊り手はひょっとこの面
■2016.03.04.fri. 蔵造りの町並み/山下家住宅up!
明治26(1893)年3月。町へ向けて、火災発生の一報を告げる半鐘が、鋭く打ち鳴らされました。
きっかけは、ささいな火の不始末からでしたが、町は一夜にして、1/3にもおよぶかけがえの無い空間を、瞬く間に失ってしまうことになります。
屋根の先端のハナブカには「イリヤマガタに半」の一文字が
山下家も同様に、折からの強風にあおられますが、耐火性に優れた蔵であったことから、奇跡的に、火の手よりの類焼をまぬがれます。
後日 蔵の構造は、復興をめざす川越の商人たちにとって、貴重な手がかりともなり、今では江戸後期に建造された、当時を知る蔵として、大沢家とともに並び、川越の地に広く知られています。
■2016.02.27.sat. 蔵造りの町並み/塩野家住宅up!
川越を散策するのなら、蔵造り(くらづくり)の密集する、一番街通りへと進んでしまうのではなく、いったん、仲町(なかまち)の交差点を西へ折れ、ひとまずは、塩野(しおの)家の蔵を訪れてからにしておくべきでしょう。
もくろみは、塩野家で手に入れた、手作りのおせんべいを頬張りながら、川越を巡る算段です。
辺りには 香ばしいお醤油のこげる香りがただよいます
■2016.02.21.sun. 蔵造りの町並み/田口家住宅up!
田口家の店舗からは、他の堅牢な造りの蔵(くら)とは異なる、置かれたポストのせいもあるのでしょう、可愛らしい雰囲気が漂います。
カメラをかまえる若い女性たちの姿も見られるようになりました
■2016.02.15.mon. 蔵造りの町並み/山崎家住宅 (茶店)up!
山崎家の店蔵(たなぐら)には、他の堅牢な造りの蔵(くら)とは異なる、開放的で、優しげな雰囲気が漂います。
店蔵東側には袖蔵が併立されます
■2016.02.09.tue. 蔵造りの町並み/原田家住宅 up!
建造は明治二十七年、屋号は「足立屋(あだちや)」。
当時より穀問屋(こくどんや)として栄え、人々から愛されてきました。
堅牢な観音開き扉 巨大な鬼瓦
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